yukari616また、会える日まで

25歳で亡くなった娘と共に歩んだ道

あの時に戻れたら

子供を亡くした親は、後悔や自責の念に苛まれる。


あの時は、あれが精一杯だったと思い、自分を慰める。


病気が分かり、4ヶ月で旅立った娘。


或る日の夜、私は娘を抱きしめたい衝動にかられた。夜中に目が覚め、もしかしたら
娘はいなくなってしまうのではないか?と、急に思い、隣の部屋で寝ている娘のベッドに行き、後ろから抱きしめたい。って、思った。が、行動には移せなかった。


入院中も、最後の3週間は病室で寝泊まりしていたのに、抱きしめることが出来なかった。医師から、かなり、厳しいことを言われていたが、本当に亡くなってしまうことは
息を引き取るまで認めていなかった。


治療などしないで、緩和治療だけにして、最後の時を自宅でゆっくり愛犬と過ごさせてあげればよかった。


あの時…あの時…


私たちの決断は正しかったのか?


亡くなってしまうことが、分かっていたら、もっともっと、充実した日々を過ごすことが出来たのではないのか?


亡くなってしまうなんて、認めたくなかった。奇跡が起こると本気で信じていた。


過酷な治療も受け、「治るから頑張ろうね。」なんて、励ましていた。


最期まで、家に帰ることを望んでいたのに、叶えてあげられなかった。


後悔ばかりだ。

娘の言葉

時々、娘の部屋に入る。


ガランとした人気のない空間。虚しさがこみ上げる。


ふと、手に取った娘が書いた闘病記。


1回目の入院時のもので、まだ、書くことが出来ていた。


パラパラとめくる。


懐かしい癖のある字だ。


私は、信頼している人に娘の病状を明かした。それを娘に言ったときに書かれた物だ。


「母は、人を信用しすぎるところがあり、そこが欠点だ。自分の病気のことを話す人は自分で決めたい。病気が病気なだけに、興味本位で近づいてくる人もいる。あまり、広めないで欲しい。1番苦しいのは、自分だとも思いたくはないが…」


私も確かに苦しかったし、打ち明けた人も子供を病気で亡くしている。だから、話した。


でも、恥ずかしい。1番苦しかったのは娘だ。自分の心の弱さを痛感したし、反省した。


会って、あの時のことを謝りたい。


それすらも、もう、出来ない。


あちらの世界で再会したら、真っ先に言おう。


「あの時は、ごめんね。」

2015年5月22日

娘がなくなる前日のことだ。


私の記憶の中で、忘れることの出来ない日だ。


その日、娘は、入院1か月の中で、初めて弱音を吐いた。


「もう、いいかな?ここでの、生活は。家に帰って、部屋の片付けがしたかったよ。」


と、ポツンと言った。


その日は、天気がよく、春の風が気持ちのいい日だった。


貧血、発熱、血尿が続いている中、久しぶりに洗髪してもらい、その後、車いすに乗って
9階の病室から、少し離れた、景色のよく見える窓際に二人で行った。


行き交う車をしばらく見て、「久しぶりに車を見たよ。風がきもちいい。」と、穏やかな顔で言った。しばらく、沈黙が続き、「もういいよ。ありがとう。」と言って、病室に戻った。


ゆったり、流れた素敵な時間だった。


翌日に永遠の別れが迫っていることなど、微塵も思っていなかった…


「もういいよ。ありがとう。」そういうことだったんだ。


人は、死期が迫っていることを感じることが出来るのだろうか?


娘の前日に言った言葉。意味があったんだ。


窓際での、二人の時間。映画のワンシーンのように、私の脳裏から離れることはない。


そして、翌日、旅立っていった娘。


私は、この日のことを一生忘れない。