yukari616また、会える日まで

25歳で亡くなった娘と共に歩んだ道

病気2

女優の角替和枝さんが亡くなった。


出身地が近く同世代だったので、親近感を持っていた。


病名を聞いて、また、びっくりした。「原発不明がん」


娘と一緒だ。原発巣より先に転移巣が見つかるという、大変まれなもので、がん全体の
1~5%だということだ。しかも、5年生存率は10%。


がんの中でも、最も手強いものだ。


原発巣が見つからなければ、治療も出来ない。(部位によって治療薬が違うらしい)


娘は、亡くなる1年前くらいから、リンパ節の腫れに気がついた。ありとあらゆる検査をしたが、病名が判明したのは、9カ月後のことだった。生検で判明したのだ。
それからは、原発巣を捜すためにありとあらゆる検査をした。ようやく見つけたのが胃。
しかも、転移するようなものではない初期がんだった。それも、亡くなる1カ月前くらいに判明した。リンパ節の切除、抗がん剤の治療が始まったが、急激に、病状が悪化して、
「原発不明がん」という病名が判明してから、4カ月後に永眠した。


手術をしたり、辛い治療に耐え、頑張った。その時の事を思い出すと、早く気付いてあげられなかったことや、手術という選択や、家に連れて帰って最期を迎えさせたかったことなど、後悔はある。そして、どうしてそんなにまれな病気になってしまったのか?


今回に角替和枝さんの訃報にふれ、また、あの時の事がよみがえり辛くなった。

哀しみと共に生きる

娘が亡くなった…2015年5月23日土曜日。


その日から、戦いは始まった。


娘であり、同業者であり、親友だった人が目の前から消えてしまった。


自暴自棄になり、全ての事がどうでもよくなった。


目が覚めれば、今日は「ただいま」と言って、帰って来るのではないか?


悪い夢を見続けているのではないか?


現実を受け止めるには余りに過酷な出来事に、現実を見ることが出来なかった。


1カ月後には、発表会を控えていたので、悲しみに浸ることは許されなかった。


その後も、自分で自分を追いつめ、走って来た。


そして、今。足の怪我で不自由な生活をし、仕事も少し休んでいる。


今、思う事…


現実は変えられないし、娘はもう帰って来ない。私が会いに行くその日まで、現実に目を背けるのではなく、変えられない事実を事実として受け止めて、哀しみを否定せず、哀しみと共に生きる…。


戦うことはやめよう。と、思う今日この頃。


今日は、父と娘の月命日。亡き人が心配して、こんな気持ちにさせてくれたのかな?

隣のお嬢さん

ここ数日、足の怪我のお蔭?で、時間に追われることなくゆったり過ごしている。


昨日、書留を持って郵便局の人が来た。


玄関のドアを開けて、しばし、話し込む。


3人のお嬢さんがバレエを習っていたそうだ。とても、嬉しそうに話すので、私は自分の事は話さず、聞いていた。


その時、隣のお嬢さんが生まれたばかりのお子さんを連れて実家に帰って来た。


その子は、娘の2級下で同じ高校だった。


ふと、娘の姿とだぶらせた。病気がなく、普通に生活していたら、こうして、子供を抱いて実家に帰って来ただろう。


そう言えば、娘は、男の子を生んで育てたいって言ってたな。厳しく育てて、たくましい男にするんだって。


見てみたかったな。お母さんとして頑張っている姿を…。