yukari616また、会える日まで

25歳で亡くなった娘と共に歩んだ道

追憶

4年前の今頃だった。


娘は具合が悪くなり入院した。


それから1ヶ月で、旅立ってしまった。


若葉の美しい、新緑の季節が一番辛く哀しい季節だ。


気丈だった娘は最後まで生きることを諦めずに本当に頑張った。


命の灯が消える前の日のことだ。


悟ったかのように言ったこと。


「部屋の片付けをしたかったな。ジル(愛犬)の事が心配だな。」


前夜の事「おかあさん、ずっと、ここにいて。」


1週間くらい、主人と交代で睡眠を取っていたので、午前3時頃に交代をしていた。


そして、朝方息を引き取った。


私は、世界で一番大切な人を亡くしてしまった。


私の人生は、そのときから、全ての色が変わってしまった。


この季節は、切なく辛い記憶がよみがえってしまう。

マッサージ

ここのところ、疲れがたまっていて腰や背中が痛い。


月に一度、近くの手もみマッサージへ行っている。


施術してくれる人は、いつも指名でお願いしているKさん。


力加減といい、急所を押してくれるポイントといい、絶妙だ。


静寂の中、いつも、ゆったりとした音楽が流れている。


娘と、一緒に来たこともあったな。


45分の間、ずっと、娘と過ごした日々に思いを馳せている。


至極の時間だ。


会えなくなって、もうすぐ丸四年。


立ち直り、普通の生活に戻ったかのように錯覚することもある。


でも、私の中ではいつまでも可愛い娘のまま。


一緒に過ごした時間は、色あせることなく、永遠に私の記憶から消えることはない。


愛しい…。

平成の終わり

来週には、新年号が発表される。


私は、昭和33年の生まれだから、昭和、平成を半々づつ生きてきたことになる。


自分の生涯を振り返ってみると、幼少の頃は小児喘息を患い、病弱な子供だった。


母は、そんな私に身体を鍛えさせようと、バレエを習わせてくれた。当時はスイミングはなく、身体を使う習い事を捜していたところ、近くにバレエがあった。


いまでもそうだが、私は何かを始めたら、すぐにはやめないという長所があった。


小学2年生の時に始めたことが、今は、仕事になっている。でも、これもなりゆき。


元々は、高校の保健体育の教師をしていた。都会の真ん中の荒れた高校だった。


故郷に帰りたい気持ちもあり、4年で辞めた。そして、結婚。3人の子宝に恵まれた。


主人は、銀行マン。転勤が多く、引っ越しも多かった。でも、結構、環境の変化を楽しんだ。


平成元年、末っ子の娘が誕生した。初めての女の子。嬉しくて幸せだった。


そして、娘が1歳の頃、バレエを教え始めた。近所の子を集めて、公民館でのスタートだった。あれから、30年近くが過ぎようとしている。色々あったが、頑張って来た。


仕事をしながらの子育ては大変であったが、義母が子供たちの面倒をよく見てくれた。そんな義母も亡くなり、4年前には、娘も亡くし、平成が幕を閉じようとしている。


一つの時代が終わってしまう。大変だったが、好きなことをやらせてもらえて、これを幸せと言わなかったら罰が当たるというものだ。


大切な人は、一人また一人とこの世を去って行ってしまい哀しいが、この世に生かされている者の宿命だ。


深い哀しみを知ったからこそ、生かされる哀しみもある。


でも、時間は容赦なく過ぎていく。やはり、進んで行くしかないのだ。背中を押されながらも、杖をつきながらも。


気張らず、焦らず、淡々と生きられたらいいな、と思う。