yukari616また、会える日まで

25歳で亡くなった娘と共に歩んだ道

生きている者の義務

先日の月命日を迎え、娘が亡くなって3年半の月日が流れた。


哀しみ、寂しさは、ずっと付きまとい、時に大きな波に飲み込まれそうになることもある。


そんなときは、歯をくいしばり、じっと耐える。涙を流すこともある。気分転換に出かけることもある。哀しみを共有できる人と、語り合うこともある。


昨日は、娘の親友が来てくれたので、久し振りに話した。


「会いたいな…。会って、この3年半のことを話したいな。今の自分は、これでいいかな?意見を聞きたいな。」


思いは、同じだ。姉御肌だった娘…母の私でさえ頼りになるお姉さんだったのだ。友人なら、尚更だろう。


でも、それはもう叶わない。この世で会うことは夢の中でしかないのだから。


愛する人を失い、悲しみにくれることは当たり前だし、その人への思いが強ければ強いほど、悲しみは深い。会えるものなら会いたい…


しかし、今、生きている人もいつか必ず死ぬ。残された時間は誰にも分からない。


年寄りが先に逝くとは限らない。だから、思う事。


亡くなった人の分まで、生きよう。若くしてこの世を去った人は、この世にいたら、まだまだやりたいことがあったはずだ。その人たちをがっかりさせるような生き方をしては申し訳ない。生かされている者は、その人たちの魂も背負い生きていく義務があるような気がする。


簡単なことではないと思うが、きっと、先に逝った人たちは、そういうことを望んでいるのではないだろうか?