寿命
この前、義父の卒寿のお祝いをした。
義父は数えの90歳。脳梗塞で二度倒れているが、会話も出来るし元気だ。
以前に比べれば、寝ていることが多く、筋力も弱ってきているようだが…
同居はしていないが、近くに住んでいるので、すぐに会いに行ける。
そんな義父だが、一言「よう、生きた」
兄弟姉妹は、全員旅立ち、ひとりだけになって数年。義母と二人、静かに暮らしている。
誰にも平等に死は訪れる。早かれ遅かれ。
長く生きれば、それだけ多くの別れを経験しなければならない。
遺された者は、長く生きれば生きるほど辛さ哀しさを味わう。
義父にとって、可愛い孫に先立たれることは辛かっただろう。
義父母の家にも、娘の元気だった頃の写真がそこここに飾られている。一人、眺めているのだろうか?
誰にでも寿命がある。長く生きる人、若くして亡くなる人、人は誕生の瞬間に寿命というものがあって、決められているのだろうか?
「よう、生きた」誰しも、そんな風に言える人生だったらいいのに。
永遠はないけど、不意に訪れた突然の別れ…早すぎる別れ…
納得する答えは得られないけど、どこかで自分に折り合いをつけて、生きていかなければならない。遺された時間の中で…。
そう、誰しも必ず死は訪れるのだから。寿命があるのだから。
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